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【アラベスク】  第16章 カカオ革命



第3節 待ち伏せする日 [2]




 脳裏に浮かぶ、虚ろで覇気の感じられない青年。
 あれが本当に、ツバサがずっと思慕していた涼木魁流なのだろうか?
 ツバサの話では、口数は少ないが内に強い意志を秘めた人間だというらしい。あの瞳の奥に、そのようなものは宿っているのだろうか?
 織笠(おがさ)という名前を出したら過敏に反応した。感情が無いというワケではなかった。
 黙ってしまった美鶴の肩を、ツバサがチョンチョンと突く。
「でさぁ、こんなところにいつまで居るワケ?」
 視線を向ける先では、メッシュの入った髪を靡かせながら真っ黒な睫をバサバサさせる女性が、重そうな扉を開けて姿を消す。扉を閉める直前にチラリとこちらへ視線を投げた。ツバサは思わず身を引く。
「ねぇ、本当にこんな所に居て、大丈夫?」
「さぁね」
「さぁねって、そんな無責任な。だいたい、知り合いって誰よ? どんな人?」
「説明するのはちょっと難しい」
「そんなぁ。少しくらい教えてよ。でないと怖くってこんなところでウロウロできないよ。変な人にでも声掛けられたらどうしよう」
「もうちょっと待て」
 美鶴は闇から目を離さない。
 霞流さんはいつも物音立てずにやってくる。やってきて、まるで風のように店の中へと吸い込まれていく。見逃したら声は掛けられない。こちらは未成年だからツバサと二人だけで店の中に入るという事はできない。
 もう店の中に居るとか? それは無いと思う。霞流さんはそんな早くからは来ない。客の少ない閑散とした雰囲気は好きではないのだと言っていた。
 騒々しい場所は苦手のように思えるから、彼のそのような発言には違和も感じた。目を丸くする美鶴へ、霞流は怠惰な視線を投げながら言った。
「集団の中に居る方が、時として一人を愉しめる」
 どういう事なんだろう?
 よくはわからないが、とにかく、この時間には、まだ霞流慎二は来ていない可能性の方が高い。
 来たら扉を閉めてしまう前に声を掛けなければ。もし向こうが先に気付いても、きっと声など掛けてはくれないだろうから。
 夜の寒さに背中が震える。
 やっぱりユンミさんを頼って店の中に入れてもらうか、霞流さんの動向くらいは確認しておくべきだっただろうか? でも、あの店の中にツバサを入れるのは躊躇われる。
 底冷えで足が悴む。当たり前だ。真冬なのだから。
 なんでこんな寒い時にバレンタインなんてイベントがあるんだろう? 寒さで人肌が恋しい季節で、恋が実りやすいからだろうか?
 バレンタインか。きっと日本中のあちこちに、チョコレートの箱を握り締めながら寒い中で想い人を待ち伏せしている女性がいるのだろう。クリスマスの場合は、事前に声を掛けて当日の予定を約束する人も多いから、ひょっとしたら、待ち伏せ女性が一年で一番多く出没するのは、今日なのかもしれない。
 寒いな。
 両肩を両手で抱きながらふと我に返る。
 私、何やってるんだろう。たかがツバサの兄の連絡先が知りたいってだけなのに。私は全然関係無いのに、どうして私はこんなところで霞流さんを待ち伏せなんてしているんだろう。しかも今日はバレンタイン当日。多くの女性の恋心が、この寒空の下のあちこちを飛びまわっているはずだ。
 横の存在をチラリと伺う。
 琵琶湖を眺めながら目に涙を浮かべる姿。美鶴はそれを、羨ましいと思った。
 ツバサの願いが、叶えばよいと思っているのだろうか? ツバサが兄と出会って自分を変える、もしくは自分に自信を持つことができたとして、だがそれが私にとって、何になるというのだ? 私も変われるとでも思っているのだろうか?
 兄と出会って自分に自信が持てるようになったツバサ。その姿を想像する。清々しく、真っ白に前を向く姿を見て、自分も変われるかもしれないなんて希望を、抱いてしまうのだろうか? 前へ進むツバサの姿など、なんで期待してしまうのだろう?
 期待、しているのだろうか?
 バカバカしい。
 緩く頭を振る。
 ツバサと私は別だ。同じ人間ではないし、私はツバサほど清くもない。周囲との間に隔たりを作って他人を見下す事に愉しみを感じて、他人を疑って侮蔑して、もちろん好きにもならないで。
 自虐する。
 そうなってしまえばいいと思っていたのに、どうして自分は霞流さんなんかを好きになってしまったのだろう。よりにもよって、霞流さんみたいな厄介な人を。
 少し、眠気が漂う。
 ぼんやりとする頭に、ツバサの声が響く。
「ねぇ、美鶴は金本くんたちにチョコ渡した?」
「へ?」
 突然の質問に目を丸くする。
「チョコ?」
「そ、金本くんとか山脇くんとかに」
「渡してないよ」
「やっぱりね」
 ツバサが小さく笑う。
「でも、それがいいかもね。変に期待持たせるのも罪だし。じゃあさ、美鶴が好きだって言う、霞流って人には渡したの?」
 美鶴は思わず視線を逸らした。
 ツバサは、美鶴の恋心を知っている。その相手の名前が霞流慎二だという事も。
 こんな場所で毎夜を過ごすのがその霞流慎二だと知ったら、ツバサはどう思うのだろう。驚く? 軽蔑する?
 霞流さんは悪い人じゃない。世間に対して恥を感じる必要もないはずだ。だけれども。
 美鶴は今日会うのが霞流慎二だとは、ツバサに告げる事ができないでいる。
 私、本当に霞流さんの事が、好きなんだろうか? 本当に好きなら、隠す必要なんて、無いはずなのに。
「ねぇ、美鶴?」
 ツバサの声に、美鶴はできだけ素っ気無く答える。
「こっちの問題より、そっちはどうなの?」
「え?」
「蔦には渡したのか?」
「え? あ、あぁ、もちろん」
 ニッコリと笑う。
「渡してきたよ。今年は手作りなのだ」
「ほー」
「味に自信無かったんだけど、美味しかったって」
「ノロけは聞いてない」
 うんざりと眉を寄せる。
「その場で食べるのか。律儀なヤツだな」
「違うよ。塾行く前に渡して、あとで電話もらったんだ」
「わざわざ美味しかったの電話ですか。仲がよろしいことで」
「えへへへ」
 恥かしそうに頭を掻き、だが曖昧に笑う。
「無理に電話切っちゃったけどね」
「え?」
「ほら、ここに来なきゃいけなかったから。コウにバレたら大変だし」
 家の者に気付かれないように出てくるのも大変だった。ツバサの家には住み込みの使用人も居る。戸締りだって厳重だ。







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